《議員の声》 『穏やかに・・・』と『ガツガツやって!』の間で-新人議員奮闘記

『世界と議会』2004年12月号 尾崎行雄記念財団

また、やってしまった…。

市議会定例会の一般質問での一シーン。再質問、再々質問と繰り返していくうちに思わず力が入り、「検討しますって、いつまでに、どのような検討をするのか具体的におっしゃってください!」。
真岡市議会の定数は現在二十六名。平均年齢は五十八歳。その大半が農家と会社役員で占められる。その中で、三十一歳、独身、議員専業(無職)の私は確かに、奇異で不思議な存在かも知れない。
論議を終えて控え室に戻ると、丁度私の父親の世代にあたる先輩議員からまたもや、「なぁ中村君、引くべきところは引いて、もっと穏やか議論できないものかね」と言われてしまった。
引くべき所は引く―どうしても、その駆け引きが今も分からないでいる。

その一方で「もっとガツガツやってもいいんじゃない」とエールを送ってくれる市民も多い。その代表格が中学時代の同級生たちだ。〇三年四月の市議会議員選挙。地域や組織の推薦なしに、二四一五票という市議選史上最高得票でトップ当選できた背景には、彼らの熱心な応援があった。有権者となって十年間、一度も投票所へ足を運んだことがないような奴らばかりなのに。

①徹底的に安上がりでクリーンな運動、
②しかも学園祭のようにワイワイ、ガヤガヤと

―これが私たちが掲げたモットーだった。事務所の看板、必勝ダルマは手作り。机、椅子はもちろん、コピー機、ファックス、テレビにパソコンは全て持ち寄り…。選挙後市民に配布した『中村かずひこ通信』の中に、この時の会計報告を掲載したところ、「選挙ってこんなに安くできるのか」と驚きの声を多くいただいた。
今彼らは、『応援する会』から、『監視する会』に名を改め、私も月一回、活動報告会を開くようにしている。私にとって最も温かく、最も厳しい支援者たちだ。

そもそも、地元のケーブルテレビ局に勤務していた私が議員になろうとしたきっかけは、〇二年二月。五期二十年市政のトップに君臨し、勇退したばかりの前市長が、受託収賄の容疑で逮捕、起訴される事態になったことに端を発する。このことが教訓となり県内各自治体では、首長、議員が襟を正そうと様々な取り組みを始めていた。にもかかわらず、肝心の真岡市では一向にそうした動きが見られない。
もともと傍聴席から取材をする側にいて、自分たちの若い世代の声が。議会で反映されていない現状にも常々疑問を感じていた。「だったら俺がやるしかないじゃん!」そう決意を固めた次の日、退職願を出していた。

議員になって一年半が過ぎた。公約の第一に掲げていた政治倫理条例も、曲がりなりにも制定することができた。『結果を伝える仕事』から、『結果を作る仕事』に…。それがまた、議員という仕事の醍醐味でもあると、今強く感じている。
しかし振り返ってみると、政治倫理条例などの公約実現に奔走してきた一方で、「議員になる前は、こういう課題に挑むとは想像できなかったな」というテーマに取り組んだことも多かった。
小中学生の不登校問題、障がい児施設の充実化などがそれである。
築四十年を過ぎ、老朽化が著しくなった障がい児施設の問題を、一般質問で採り上げた事があった。その数日後、市内に住む若いお母さんから、「中村さんが質問している様子をケーブルテレビの中継で見ました。うちの子にも光を当ててくれる議員さんがいてくれるんだと思い、涙が出そうになりました」というメールが送られてきた。議員になってよかったと、喜びをかみ締められる瞬間である。

丁度、この原稿の依頼を受けたとき、私は東京にいた。大学時代に所属していたゼミのOB会に参加していたのである。現役の学生たちから色々な質問を受けた。「議員になったきっかけは?」「普段はどのような活動をしているのか?」「大変な部分は?」―お酒も入り、ほろ酔い加減になっているとはいえ、彼らの目は皆、真剣そのものだ。
「十年前だったら、俺も同じことを質問していたんだろうな」―ふと、そんなことを考えた。
議員として今後どんな道を進むのか…。それは私自身にも分からない。しかし、少なくとも十年前、理想論を熱く語っていた二十一歳の大学生・中村和彦に、胸を張れる議員・中村和彦でありたいと、そう思うのである。

『地方議員東西南北』23

『日本教育新聞』2005年9月26日号 日本教育新聞社

真岡市は不登校状態にある子どもの割合が県内で最も高い自治体の一つです。私が初当選した平成十五年当時、わが市の適応指導教室は、ある中学校の空き教室に設けられていました。

その学校の式典に招かれたときのことです。校長室のそばにあった適応指導教室から子どもが顔をのぞかせ、廊下に人がいないか注意深げに視線を巡らせていました。人と会いたくないのです。学校に通えない子どもたちにとっては敷居が高いということも大きな問題でした。
この件については、私も一般質問で取り上げ、その後補正予算が計上されたこともあり、今では校外の施設に移転されています。現在では多くの子が通ってくるようになりました。同時に中学校の不登校の割合は低下を続けています。学校側の努力に心から敬意を払っています。

小学校六年生の時、私にとって一生忘れられない出来事がありました。級友の一人が骨肉腫のため脚を切断することになったのです。当時、六年生の教室は四階にあったのですが、担任の教員はこの級友のために教室を一階に移すことを決めました。「みんな、あの子の行ける場所まで降りて行ってあげよう」。子どもだった私たちは、当たり前のことだと受け止めていました。
しかし、三十歳を過ぎ、当時の先生の年齢を超えてみると、それほど単純な話ではなかったのではないかと考えるようになりました。最近になって、先生にそのことを聞いてみたところ「たった一人の子を特別扱いすることになりはしないか」「自分のクラスの子にとって、他の六年生と交流しづらくさせてしまうのではないか」と随分悩まれたようです。それでも、思い切って決断したとのことでした。

議員となった今、議場で教育問題について論戦を交わしているとき、あのころの恩師の姿を思い出すことがあります。「同じような気持ちで議員活動ができれば・・・」。そう思うのです。
「教育行政」の最優先課題は、雨が降ったとき「びしょぬれになりそうな子どもにそっと傘を与えるようなもの」ではないか、と私は考えています。私たち大人は、自分の周りにいる子どもたちがみんな健やかに育っていると強く信じたいものです。しかし、だからこそ困っている子どもたちに焦点が当たりにくくなり、結果として「かっぱを着ている子どもにだけ傘が行き渡っている」ことになってはいないかと感じるときがあります。

私が今後取り組みたいテーマに、LD・ADHDの問題があります。障がいのある子をもつ親と接する中で、親は子どもの障がいを認めたがらないという実態に触れてきました。LD・ADHDはよく話題に上りますが、親の意識は障がいと認知するところまではいっていません。子どもたちも同様です。
コーディネーターの設置や周知徹底の方法など、行政として検討しなければならないことを求めていくつもりです。

12月議会