プロフィール

profile

中村かずひこ

昭和48(1973)年4月8日、茨城県下館市(現 筑西市)に生まれる。

ちなみに、和彦という名前は、父・達也が大洋ホエールズ(現 横浜DeNAベイスターズ)で強打者として鳴らした近藤和彦選手のファンだったことに由来するらしい。

中村かずひこ
ヒストリー

幼少期

父親の仕事の関係で、1歳になる前に真岡市へ転居。

親しい人にはよく話しかける子どもだったようで、自宅の新築時に出入りしていた大工さんから「この子は将来アナウンサーか、落語家だねぇ」と言われたらしい(ほぼ予言的中です!)。
ただし、ひとりっ子のためか完全な「内弁慶」。

小学生時代

覚醒(?)したのは、小学3年生の頃。

小学校低学年の頃の通知表には「のんびりしている」「大人しい」と書かれることが多かった。確かに、授業中にぼんやりと窓の外を眺めていて、先生から注意されることがしばしば。

クラスで行ったのど自慢大会で高評価を受けたことで、次第に人前に出ることに快感を覚えるようになり、児童会長を務めた。

中学生・高校生時代

アメリカでのホームスティ経験が「いつの日か自分もMoka is No.1!と言える人間になりたい」と考えるキッカケに。

ちなみに、中学時代はバスケットボール部(誰にも信じてもらえませんが、今よりははるかに痩せていましたので…)、高校時代は落語同好会に所属。ちなみに、落語は現在も活動を続けていて、「欅家とん平」という芸名で毎年20回ほど高座にあがっている。
小学校に続き、中学・高校でも生徒会長を務めた。

幼い頃から高校時代まで過ごしてきた真岡市。ずっと「田舎で何もないまちだ」と思い続けてきた。そんな考えが変わるきっかけになったのは、高校3年生になる直前の春休み。
当時、栃木県が行っていた高校生のアメリカ派遣事業に参加し、1週間ほどオハイオ州の田舎町でホームステイを経験。
「このまちが、俺たちはNo.1だと思っている」と胸を張って言う現地の高校生達の姿を見て、自分が住んでいるまちにコンプレックスを抱いてきたことが恥ずかしくなった。その時から「いつの日か自分もMoka is No.1!と言える人間になりたい」と考えるように…。

大学時代

明治大学に進学後、三木武夫元首相も在籍していた雄辯部に入部。

他大学の弁論部員達と数々の弁論大会で弁舌を競う。高校時代に経験したことが大きく影響し、地方分権や地域の活性化が自分にとっての主要テーマだった。
大学の枠を超えて、全国各地をまわって街頭演説をしたことは、今でも楽しい思い出の1つ。

この当時、自分の周囲には「俺が総理大臣になった時は、お前を秘書官に雇ってやる!」くらいの恐ろしいことを平気で言う個性的な面々が多かった。そうした仲間達と、今も親交があるのは、自分にとって大きな財産だと思っている。

社会人時代

大学卒業後は「地元の活性化に関わりたい」と、
地元のケーブルテレビ局に入社。

開局直後で社員も少なく、営業から、番組制作、アナウンスなどを担当。高校野球とサッカーの実況をした後、お客様のところへ出向いて営業活動…という日も。
テレビ局なので、当然カメラで撮影をする仕事も多かったが、私が操作をするとなぜか故障する事態が度々発生し、「中村電磁波」なる異名(?)を同僚から授かる。

取材や営業の仕事を通じて、数多くの市民の皆さんと交流する中で「真岡市はこんなに魅力があったのか!」と学ばされる機会に恵まれ、それが今の自分の原動力になっている。

初出馬・初当選

平成15(2003)年、市議会議員選挙に初出馬、
当時の史上最多得票で当選

ケーブルテレビの仕事を通じて「真岡市の魅力をもっと磨く方法はあるはずなのに」という思いをずっと抱き続けてきた。そして、出馬の大きなきっかけになったのは、市内で起きた贈収賄事件。公約には「政治倫理の確立」のほか、「住民参加のまちづくり」「若い世代の雇用を創出」「自然環境の保護」を掲げた。
告示日の1週間前に30歳になったばかり。選挙戦略などもあるはずがなく、周囲からは「あんな若い奴が当選するはずがない」と言われ続けてきた。

しかし、同級生達が忙しい仕事の合間を縫って応援をしてくれた結果、2415票という真岡市議選としては史上最多得票(当時)で初当選を果たした。

議員一期目

初めて経験した定例議会(平成15年6月定例議会)。

当時の福田武隼市長をはじめ市執行部に「市町合併」や「工業団地整備」などの課題について初めての一般質問を行う。
とにかく初めてのことなので、色々なところへ取材に出かけ、朝から晩まで何日間もパソコンに向き合っての原稿作成。しかも本番当日は、目の前にベテランの先輩議員達がこちらをジーっと…(温かく見守ってくださっていたのだと今は感じております)。
当時は「うわ~、こんなことをあと何回やればいいんだよ」と思っていたが、現在まで約60回も質問を続けている。

現在・これから

議会内では、議長や副議長、さらには広報広聴委員長などを経験し、議会改革に挑んできた。
また、関東若手市議会議員の会会長や、全国若手市議会議員の会副会長を経験し、各地で奮闘する同世代の議員と研鑽を積むことで、今の真岡市がおかれている状況を見つめ直す機会になった。

議員として様々な政策課題に挑んできたが、最も力を入れているテーマは「教育と生涯学習」だと考えている。

「江戸時代、真岡には数多くの寺子屋があった」
「栃木県が発足した翌年には、すでに各地区で小学校の設立が相次いだ」
「宇都宮、栃木に次いで旧制中学が設立された」
真岡市の歴史を振り返ると、このまちの先人達は、教育に高い志で挑んでいた。

真岡市は「報徳仕法」や「創造美育」発祥の地でもある。
そして今も、多くの市民がまちづくりに積極的に参加している。

そして、「教育と生涯学習」は、真岡市にとってのDNAであり、将来に向けたまちづくりのキーワードであると私は考えている。
これは学校教育や公民館活動などにとどまる話ではなく、「教育と生涯学習」を看板に掲げた自治体としての、福祉政策、環境政策、観光事業、そして地域経済の活性化があるはずである。
市民1人ひとりのチャレンジが輝く真岡市になるよう、私は力を尽くしていきたい。

「教育と生涯学習」は、真岡市にとってのDNAであり、将来に向けたまちづくりのキーワードであると私は考えている。
これは学校教育や公民館活動などにとどまる話ではなく、「教育と生涯学習」を看板に掲げた自治体としての、福祉政策、環境政策、観光事業、そして地域経済の活性化があるはずである。
市民1人ひとりのチャレンジが輝く真岡市になるよう、私は力を尽くしていきたい。